ばるかん




自室のソファに腰掛けている。や、腰掛ける、というよりも半分横になっているくらいだから、身体を預けている、に等しい。こういうぶぶんに神経質なくせに、けっきょくはけっこうなんでもよかったりする。伝われば。わたしはわたしとの会話がだいすきでだいきらいなのかもしれない。


ほとんど丸一日くらい料理をしていないと心臓の裏側あたりがカッカしてきて、うずうず、それはどんどん加速していく。ある食材を頭に浮かべて、あーしようこーしよう、どうしたらいいかなとか考えるのがやめられないから、そうなるのも仕方無いのかも。起きてすぐに夜食のことを考えたりすることもあって、もはや病にも近い。こんやは、玉ねぎとにんにくをしんなり炒めたところにあらゆるスパイスをなじませ、ホールトマトをたっぷり、火にかけ潰したところに緑豆をざっと加えてコトコト、カレーのようなもの。肉食化が進んでいる肉体に根負けしてポークハンバーグ。やっと作り方に慣れてきたクスクス。ちぎったグリーンリーフ。それらをぜんぶ一皿にのっけて、おいしい夜となった。スパイシーな煮込み料理にヨーグルトをぽてっとおとして食べるのにハマりつつある。きづくといろんな物事が変わっているのは、瞬間ずつでいろんなことに気づいているからなのだとおもう。そしてすべてはつながっている。迷路みたいだけど、それってけっこうたのしい。あ、マカロンたべたい。自分評価で83点以上のマカロンたべたい。欲求はいつだって突然に。


リッキー・リー・ジョーンズの音源を聴いている。pop pop ,

さいきん、夜がみじかい。夏至?というらしい。いままであまり気に留めたことがなかった。どうしてだろうか。朝より昼より夜がすきなわたしだけれど、それもいいな、そう感じている。だって休日の午後に起きてからお酒を呑みはじめてほろ酔いになったくらいでもまだまだ空が明るい、っていうの、うれしい。そういう単純さ。


数日前、一ヶ月くらい音沙汰のなかった親友がとつぜん職場にやってきて、うれしかった。去年地元へと戻った先輩から、自分のお店を開きます、と手紙がきて、なんどもくりかえし読んだ。ゆうべも同僚たちが口論をしていて、賑やかだなあとおもった。月があやしくひかっていて、遠くで犬たちが吠えているのがきこえた。なまぬるいようで、肌寒い夜。



恋人が眠っている。さっき食べたカレーのようなものに入れた豆みたいに、ふっくら、眠っている。寝息が耳に甘い。リッキーの声もぼんやり、甘ったるくてここちいい。マカロンいらなくなってきちゃった。


身軽になろう。
もしくは、ちからをつけよう。
わたしなりに、とべるように。




ねおん




ゆうべは、さいこうの夜だった。
ずっとみたかったミラーボールズに、頭のてっぺんから足指の先まで釘づけになって、わらいながら、なみだがこぼれてた。さいきんよくおもうこと、こどももおとなもないよ、って、年齢とか性別、そんなので判断するのは、ほんのひとさじだけでいいよな、じぶん、としていなくちゃ、だめになっちゃうかもしれない、って。しぜんをおいかけるのも、ふしぜん、しぜん、どっちでもいいんじゃない。きみが頷けるなら。いろんなことが背中合わせなのだ、きっと。



なきたいならなけばいい
なみだがじゃまならふけばいい
ハンカチーフをかしてやる

ずっと耳にひっついてるうた。
またみたいな、ミラーボールズ
こころにも、胃袋ってあるのかもしれないとおもったりしたよ。



一難去って、また一難。そんな日々。だけど、どうにかなるか、なんてへらへらしていたりもする。複雑骨折は、かんたんには治らなくて、あー、しかもちょっと剥離しちゃってるじゃん、欠片どこ?もうみつかんないよ、ちょう痛いし、あーあ、そんなんでもけらけら笑えちゃったりもして、へんなかんじ。

さっき、大きい地震があった。いまわたしが死んでも誰も気づかないなっておもった。まだ心臓がどきどきしてる。しかし亀だけは死守しないとなりませんのです。



ハンカチーフをかしてほしい



えぴめてうす





きもちを口から出すことが、どんどんへたくそになっていっているような気がする。どうしてか、そう考えたとき、こわいのだ、とおもった。たとえば、困惑させてしまうこと、たとえば、無言、たとえば、めんどうくさいといわれること、たとえば、くらいきもちにさせてしまうこと、それをわたしがかんじとってしまうだろうという予感、たとえば、時間が経ってひとり立ち尽くすかんかく、

わたしがわたしをめんどうくさいとかんじていて、果たしてだれがそれを許容するか。

そろそろ、死んじゃえば?
わたしが言う。
うるせえだまれ、わたしは答える。



さいきん、なにかしているとき、ぽろぽろなみだがでてきて、びっくりしたりする。さいごに大声で泣き喚いたのはいつだったか、きみは、思いだせる?わたしは日付けまで思いだせちゃってこまる。

らくだったこころが、そうではなくなっていく、それがすごくかなしい。ポケットが重たくてやぶけそうなかんかく。
クローゼットにお裁縫箱あったかな、ってさがそうとしたらポケットの小さい穴からチーズの欠片がこぼれでた、それを追っかけてネズミがチュー、そいつを追っかけたネコがニャー、とびでた。穴はあっという間に大きく拡がって、インクの切れたペンやら食べかけのドーナツ、あのこの悪口とか青い鳥の羽根、届かなかった手紙や集めたガラクタまでどんどんどんどんこぼれていった。
そこで気づいた。あー、みんなパンドラの箱みたいなのもってるのか。ふーん、もういいや、ほら、さっさとぜんぶでちゃえよ。


空に月はでていないけど、きっと半月くらいのはずだから、ぶあついクレープをつくって半分に折って、アイスクリームをのせて、チョコレートシロップをだばだばかけて、食べた。シュガーハイに、なりたかった。想像力でじゅうぶんなのに?

とりあえずあした、いろいろ纏めようとおもってる。ひつようなものだけ、もっていればいい。

わたしのポケットは、小さいけどよく伸びるのか。じゃあ、錯覚には気をつけようね。たのしいことが、すきなんでしょ。はーい

ぺんたぐらむ




行動は猫、想像は鼠。
そんなようなことを綴っていたのは、誰だったか、しっている?


数日前、狭い路地を自転車でいこうとしているとき、大きなトラックが前をゆっくりと進みつつ道を陣取っていた。手前にはぐずぐずと数台数名の自転車人々、わたしはとても先を急いでいて、隙間をすり抜けるようにトラック自転車人々を通り過ぎた。そのとき、過去に読んだことのある冒頭に記した文章が頭に蘇ってきたのだ。

だから何、という訳ではないのだけれど、想像が行動をこえた、という話。そんなことは日常にありふれている。



今年に入ってはじめて、おさけをのまなかった、ふたつまえの1日。きのうはなんだか内臓の動きがくっきりしていて、きょうものまないかなあ、なんて考えていたけれど、刺客の神様がご馳走してくれたりして、あっというまによっぱらってしまった。やっぱり、たまには肝臓を休ませてあげようとおもう。


わたしが嫌悪するのは、見て見ぬ振り、というやつで、そういうものは世に溢れかえっているきがする。まあだいじょうぶだろう、だれかがやるだろう、じぶんはしらない、どうせだれもきづいてないでしょ、-----、そういうことは、ものすごくきもちわるい。視線や温度で、きづいてしまったりすることが、どうにもならなくて、しんどい。きづかなければ、いいのにとおもう。
ちょうど2週間前、泥酔して眠りこけ、椅子に座ったまま後ろにひっくり返ったらしいけれど、まったく憶えていない。頭を打ってた、とか、死んだかとおもった、とか、激おこで帰ってったよ、とか、周りから色々聞かされ、平謝りの日々だったけれど、心のどこかではどうせなら脳みその半分くらいはみ出ちゃってればよかったなあ、とか思ってたりして。それにしても、ずっとお尻が痛い。桃かモナカかライザップ。未だ反省中。



きょうとあしたと連休で、なんにも予定を決めていない。めずらしい。カメラでも引っ掛けて、自転車でどこかに行こうかとおもう。写真を撮るのはすきだ、そしてわたしはずっと、動くものに魅了されている、のだといまおもった。

そういえばゆうべ、よくしっているひとのドッペルゲンガーをみた。ちらちらみていたら視線が合って、心臓がすごく、どきどきした。


恋人の寝息がすうすう、ここちよく耳にきこえてくる。どんな夢をみてるんだろうか。亀もすうすう、甲羅の中。


Happy Sunday morning ,  




マールボロ




欲求とは、得てして泥沼のようだとおもう。一歩、足を踏み入れる、ずぶずぶずぶ、いつの間にやら深みにはまり、あれまあ、ごぼごぼ、
あるひとは、ほんじゃー泳いでみるか、などと泥塗れの姿でへらへら鼻唄まじりに犬かきなんか始めてみる。またあるひとは、あーもうだめだ、死のう、と目蓋を閉じて最期を待つ。またあるひとは、ぜってーここから脱け出す、まじで泥も沼も天も地もゆるさねえ、などと躍起になりもがき、あれ、なんだっけ、

そう、欲求について思考していたのだった。わたしがいちばん恐れているものは、緑色した魔物だ。幼いころにみたあいつと、関係があるのかもしれない。


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ぽつぽつ、唇の隙間から水滴を垂らすように、あるひとは話し始めた。他のことをかんがえることもなく、その話を聞いていたわたしは、あのとき、ただうれしく感じた。まっすぐの筒を液体がすっと流れるみたいに、ことばの粒がつながってしみこんでくるかんかくがして、すごくふしぎだった。ことばが、いつだって必要なわけではないと、経験をもってそうおもうけれど、ことばで埋まる空洞はあるのだと、そうかんじた。


自分の首を絞めるようなことは、できるだけしたくないね。目の前に人参を自らぶら下げて延々と走りつづけるみたいな。うんざり。峠を越えても山とか谷とか斜陽とか、

ある曲をくりかえし聴いていたら、だけどわたしはいつでも、ころされるのを待ち望んでいるんじゃないか、とさえおもってしまって、感覚を立体化するようにしてみたら、ものすごくきもちよくって、ちょっとわらった。そう、そういうかんじで、



もうすぐ満月だからか、ちょっとへんなかんじ。いつでも月から逃げきりたいくせに、たぶん、わたしは振り返る。
信号は、ずっと黄色で、
赤になる前に走れ?
それじゃ、だるまさんも、転べないじゃない。
トマレ?
ヤダ。




ロカンタン



"  いつだってどこか遠くにいきたいとおもってしまうし、いつだって、いますぐここで標本になりたいとおもったりする。 "

そう書き留めたのはきのう、
このふたつの思想を、その時、まったく反することばのように、わたし自身、感じていた。まっすぐ、解釈するならば、それもそうだろうと、おもっていたのだけれど、それらを同時に感じてしまったわたしは、気づいた。

自由でいられるなら、なんだってできるのだと。あゝわたしはずっと、自由だった、と。ずっとわたしを縛りつけていたのは自分自身だったのだ。

ひとつの肉体で、このまま標本になりたい、とおもったと同時に、わたしはわたし自身が望む遠くへ、と行ってしまっていた、瞬間、どこへでも行けた、
と、ここまで書いて、そういえば、以前にも同じような感覚をおぼえたことがあったなとおもいだした。
ものすごく、ここちいいソレ。



あとひとつ、
待ちびと、の反対は、わたしは行く、で、あってるとおもわない?
まちがっていてもいいのだけれど。


きのうは電車が3分遅れていたけれど、焦らなかった。きょうは電車が2分も遅れていて、すごく焦っている。
おもしろい。


ちょっと、ビール浴びてくるね。



水底サンドリー



洗濯機をまわしていると、洗剤の匂いがぷん、と漂ってきて、いいきもち。乾かすのも、たたむのも、ほんとうはすきじゃない。日常。もし、いまこれから、洗濯を二度としなくなったら、しばらく着てあげられていなかった服も、着てあげられるかな、そのくらいのきもちでいる。すごく、へんだとおもう。


ベンジーの描いた絵は、一枚で物語だし、目の前の風景で、うたで、いきもので、煉瓦たちの会話で、溶けおちかけのクリームで、ハイヒールのきもちで、夢みる不良少年で、狼の皮をかぶったヤギとかウサギで、脱いでも脱いでも狼だったり、寝ぼけて地上に墜ちた星で、そう、そんなかんじ。個展を後にした平日の夕刻、新宿南口の喫茶店のボックス席にてアイスコーヒーを注文し、白くてまっすぐなストローで飲んだ。あじがしなかった。心臓にぜんぶ、もってかれたかんじ。

飽和、それが存在して刺激も存在するのだとしっている、ようなきがする。それこそは、どっちでもいい。だってきっとみんな、うまれたときからたいくつなんじゃないの。



いろんなものが、伝染するから、目や耳や鼻や頭のてっぺんから侵入してきては、ぐら、ってなって、靴下脱いでお口に詰めちゃうよ、って、おもうことがある、でも、そういうことじゃなくって、さわりたくないものはさわりたくないし、すきなものはどうしてもすきだ、

絵空事なら燃やそう。わらってちぎって、片手間に踏んで、燃やそう、できれば、いますぐ、片手には煙草、それだけでいいと、ときおり、ほんとうにおもう。みてみぬふりばかりの、世界なら。あじをかんじなくなったチューインガムを吐き捨てるみたいに。



だいじょうぶ。わたしはわたし、きみはきみ、あのこはあのこ、あいつはあいつ、だから、だいじょうぶ。わたしはずっとおもっているし、わたしはいのりつづけているし、わたしはいのりつづける。それでじゅうぶんじゃない?
みんなひっそり、百面相するから、敏感なきみは、たいへんになるんだろ。ほら、ここだよ、しっかりしろ。

何色が足りないか、っていうのと、何色が欲しいか、っていうのは、ぜんぜん、きっと、ちがう。



キム・ギドク脚本監督作品「弓」を観た。90分の中に、十年以上の月日を視てしまった感覚が、した。言葉がいつだって必要なわけではない、彼の作品をみていると、そう、よくおもう。うつくしくて、どうしよもなく、なみだがでた。

いつだってどこか遠くにいきたいとおもってしまうし、いつだって、いますぐここで標本になりたいとおもったりする。



枕の下に、今夜みる夢たちが隠れてるの、しってた?そこにドアがあってさ、


どうにもこうにも、シエスタ