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ヘルヴェチカ



「この近くにディグダ、いるよ」同僚がそうわたしに言ったしゅんかん、もうずいぶんと会っていない友人のことをおもいだした。チンザノロッソ、アイスクリーム、2匹のアフリカツノガエル、名前はアイロニーとリザベル、clinic、カマドウマ、水槽の中を泳ぐ縞々の魚、東京の空にインサートした中指、
いつか友人が口にした、「ディグダに踏み潰されたみたいな気分だよ」そのときわたしは、友人を踏み潰した存在がどんなものだったのかわからなかった。それにまだ、わかっていない。ディグダは姿を現さずに立ち去ったのだ。くやしー。

その友人は地元に帰って僧になったとか、海外で妙ちくりんな写真を撮り続けてるとか、他にもいろいろ風の噂で耳にしたけれど、ほんとうのことはなにもしらなくて、どうしてるかな、とぼんやりおもった。



ゆうべ、ものすごくすてきな報告があって、それからずっと顔がにこにこしてしまっている。じぶんのことじゃないのに、じぶんのことみたいにうれしいきもちになっていて、すごくふしぎだ。
アゴを割ったキューピッドに矢を射たキューピッドは?なんて、ひとりもくもくかんがえてみたりして。とにかくすごく、うれしい。うれしい?うれしい。


1年という月日はあっというまに。幸せ太りというのはあるのだなと身をもってしったし、季節の温度とか色や音がくっきりと浮かぶ日々があり、愛亀くんもぐんぐんおおきくなって、

いいこともわるいこともあって豊かといえるのかもしれないと、いまはなんとなくおもう。

帯締めたり緩めたりして、いきましょ。ねこのように、のびやかに。







東京



東京はかなしい、そしてうつくしい。


泥酔して失くした記憶たちはどこにいくんだろうか、そう呟いたら、死ぬ間際に走馬灯がみえるとしたらそこでみえたりするんじゃない?と、誰かが笑ってた。

よみがえるものと、よみがえらないもの、がきっとあって、そこの線引きはきっと無意識で行われているのだろう。

指先から紡がれていく感情は、どんな成分であっても確かで、偽りでも誠でも、すべてがまるみをおびた真実なのだろう。


ひらかれることもなく、誰かの手によってゴミ箱へ捨てられた手紙の行方は?

東京はかなしい、そしてうつくしい。
そう、わたしの底からおもえる。
隣の芝生が赤くみえる。
自由でいよう。








エーテル



どうしたの?頭の中で、蛇が問う。どうもしないよ、わたしは答える。


わたしにとっての宇宙を、わたしはずっとしっていた。それにきづいてしまったしゅんかん、スプーンで掬われたようなきもちになった。生と死は背中合わせで、だからこそ、いま、生きていられているのだと、わかったんだよね。真意は、わかるひとはわかるし、だれにもわからなくても、いい。
ずいぶんと、歩いてきた、景色は変わっているようで、時は停まっているようで、それでも季節はめぐって、月はかくれんぼ、そして、或る花弁はこぼれて、



甘えさせてくれる場所や人、そういうやわらかいものをかんじるとき、じぶんがとげとげの石になったようなきもちになる。やけくそになってぶつかると、相手まで、けが、しちゃうじゃない、だから削るかっていうと、そうでもなくて、だから、転んだり喚いたり傷つけたり。削れるものは削れていくけど、転がっていく選択肢もあるし、留まるのも。他にもたくさん。


なにがきらきらしてみえるか、っていうの、すごく、だいじだとおもった。

口だけのやつはきらい。
だから、わたしはわたしをすきになれないままなんだ。はずかしい、がやっと、発酵してきている。ありがと。










ばるかん




自室のソファに腰掛けている。や、腰掛ける、というよりも半分横になっているくらいだから、身体を預けている、に等しい。こういうぶぶんに神経質なくせに、けっきょくはけっこうなんでもよかったりする。伝われば。わたしはわたしとの会話がだいすきでだいきらいなのかもしれない。


ほとんど丸一日くらい料理をしていないと心臓の裏側あたりがカッカしてきて、うずうず、それはどんどん加速していく。ある食材を頭に浮かべて、あーしようこーしよう、どうしたらいいかなとか考えるのがやめられないから、そうなるのも仕方無いのかも。起きてすぐに夜食のことを考えたりすることもあって、もはや病にも近い。こんやは、玉ねぎとにんにくをしんなり炒めたところにあらゆるスパイスをなじませ、ホールトマトをたっぷり、火にかけ潰したところに緑豆をざっと加えてコトコト、カレーのようなもの。肉食化が進んでいる肉体に根負けしてポークハンバーグ。やっと作り方に慣れてきたクスクス。ちぎったグリーンリーフ。それらをぜんぶ一皿にのっけて、おいしい夜となった。スパイシーな煮込み料理にヨーグルトをぽてっとおとして食べるのにハマりつつある。きづくといろんな物事が変わっているのは、瞬間ずつでいろんなことに気づいているからなのだとおもう。そしてすべてはつながっている。迷路みたいだけど、それってけっこうたのしい。あ、マカロンたべたい。自分評価で83点以上のマカロンたべたい。欲求はいつだって突然に。


リッキー・リー・ジョーンズの音源を聴いている。pop pop ,

さいきん、夜がみじかい。夏至?というらしい。いままであまり気に留めたことがなかった。どうしてだろうか。朝より昼より夜がすきなわたしだけれど、それもいいな、そう感じている。だって休日の午後に起きてからお酒を呑みはじめてほろ酔いになったくらいでもまだまだ空が明るい、っていうの、うれしい。そういう単純さ。


数日前、一ヶ月くらい音沙汰のなかった親友がとつぜん職場にやってきて、うれしかった。去年地元へと戻った先輩から、自分のお店を開きます、と手紙がきて、なんどもくりかえし読んだ。ゆうべも同僚たちが口論をしていて、賑やかだなあとおもった。月があやしくひかっていて、遠くで犬たちが吠えているのがきこえた。なまぬるいようで、肌寒い夜。



恋人が眠っている。さっき食べたカレーのようなものに入れた豆みたいに、ふっくら、眠っている。寝息が耳に甘い。リッキーの声もぼんやり、甘ったるくてここちいい。マカロンいらなくなってきちゃった。


身軽になろう。
もしくは、ちからをつけよう。
わたしなりに、とべるように。




ねおん




ゆうべは、さいこうの夜だった。
ずっとみたかったミラーボールズに、頭のてっぺんから足指の先まで釘づけになって、わらいながら、なみだがこぼれてた。さいきんよくおもうこと、こどももおとなもないよ、って、年齢とか性別、そんなので判断するのは、ほんのひとさじだけでいいよな、じぶん、としていなくちゃ、だめになっちゃうかもしれない、って。しぜんをおいかけるのも、ふしぜん、しぜん、どっちでもいいんじゃない。きみが頷けるなら。いろんなことが背中合わせなのだ、きっと。



なきたいならなけばいい
なみだがじゃまならふけばいい
ハンカチーフをかしてやる

ずっと耳にひっついてるうた。
またみたいな、ミラーボールズ
こころにも、胃袋ってあるのかもしれないとおもったりしたよ。



一難去って、また一難。そんな日々。だけど、どうにかなるか、なんてへらへらしていたりもする。複雑骨折は、かんたんには治らなくて、あー、しかもちょっと剥離しちゃってるじゃん、欠片どこ?もうみつかんないよ、ちょう痛いし、あーあ、そんなんでもけらけら笑えちゃったりもして、へんなかんじ。

さっき、大きい地震があった。いまわたしが死んでも誰も気づかないなっておもった。まだ心臓がどきどきしてる。しかし亀だけは死守しないとなりませんのです。



ハンカチーフをかしてほしい



えぴめてうす





きもちを口から出すことが、どんどんへたくそになっていっているような気がする。どうしてか、そう考えたとき、こわいのだ、とおもった。たとえば、困惑させてしまうこと、たとえば、無言、たとえば、めんどうくさいといわれること、たとえば、くらいきもちにさせてしまうこと、それをわたしがかんじとってしまうだろうという予感、たとえば、時間が経ってひとり立ち尽くすかんかく、

わたしがわたしをめんどうくさいとかんじていて、果たしてだれがそれを許容するか。

そろそろ、死んじゃえば?
わたしが言う。
うるせえだまれ、わたしは答える。



さいきん、なにかしているとき、ぽろぽろなみだがでてきて、びっくりしたりする。さいごに大声で泣き喚いたのはいつだったか、きみは、思いだせる?わたしは日付けまで思いだせちゃってこまる。

らくだったこころが、そうではなくなっていく、それがすごくかなしい。ポケットが重たくてやぶけそうなかんかく。
クローゼットにお裁縫箱あったかな、ってさがそうとしたらポケットの小さい穴からチーズの欠片がこぼれでた、それを追っかけてネズミがチュー、そいつを追っかけたネコがニャー、とびでた。穴はあっという間に大きく拡がって、インクの切れたペンやら食べかけのドーナツ、あのこの悪口とか青い鳥の羽根、届かなかった手紙や集めたガラクタまでどんどんどんどんこぼれていった。
そこで気づいた。あー、みんなパンドラの箱みたいなのもってるのか。ふーん、もういいや、ほら、さっさとぜんぶでちゃえよ。


空に月はでていないけど、きっと半月くらいのはずだから、ぶあついクレープをつくって半分に折って、アイスクリームをのせて、チョコレートシロップをだばだばかけて、食べた。シュガーハイに、なりたかった。想像力でじゅうぶんなのに?

とりあえずあした、いろいろ纏めようとおもってる。ひつようなものだけ、もっていればいい。

わたしのポケットは、小さいけどよく伸びるのか。じゃあ、錯覚には気をつけようね。たのしいことが、すきなんでしょ。はーい

ぺんたぐらむ




行動は猫、想像は鼠。
そんなようなことを綴っていたのは、誰だったか、しっている?


数日前、狭い路地を自転車でいこうとしているとき、大きなトラックが前をゆっくりと進みつつ道を陣取っていた。手前にはぐずぐずと数台数名の自転車人々、わたしはとても先を急いでいて、隙間をすり抜けるようにトラック自転車人々を通り過ぎた。そのとき、過去に読んだことのある冒頭に記した文章が頭に蘇ってきたのだ。

だから何、という訳ではないのだけれど、想像が行動をこえた、という話。そんなことは日常にありふれている。



今年に入ってはじめて、おさけをのまなかった、ふたつまえの1日。きのうはなんだか内臓の動きがくっきりしていて、きょうものまないかなあ、なんて考えていたけれど、刺客の神様がご馳走してくれたりして、あっというまによっぱらってしまった。やっぱり、たまには肝臓を休ませてあげようとおもう。


わたしが嫌悪するのは、見て見ぬ振り、というやつで、そういうものは世に溢れかえっているきがする。まあだいじょうぶだろう、だれかがやるだろう、じぶんはしらない、どうせだれもきづいてないでしょ、-----、そういうことは、ものすごくきもちわるい。視線や温度で、きづいてしまったりすることが、どうにもならなくて、しんどい。きづかなければ、いいのにとおもう。
ちょうど2週間前、泥酔して眠りこけ、椅子に座ったまま後ろにひっくり返ったらしいけれど、まったく憶えていない。頭を打ってた、とか、死んだかとおもった、とか、激おこで帰ってったよ、とか、周りから色々聞かされ、平謝りの日々だったけれど、心のどこかではどうせなら脳みその半分くらいはみ出ちゃってればよかったなあ、とか思ってたりして。それにしても、ずっとお尻が痛い。桃かモナカかライザップ。未だ反省中。



きょうとあしたと連休で、なんにも予定を決めていない。めずらしい。カメラでも引っ掛けて、自転車でどこかに行こうかとおもう。写真を撮るのはすきだ、そしてわたしはずっと、動くものに魅了されている、のだといまおもった。

そういえばゆうべ、よくしっているひとのドッペルゲンガーをみた。ちらちらみていたら視線が合って、心臓がすごく、どきどきした。


恋人の寝息がすうすう、ここちよく耳にきこえてくる。どんな夢をみてるんだろうか。亀もすうすう、甲羅の中。


Happy Sunday morning ,