びいどろ




いつのまにか十二月も半ばだった。けっこう、忙しい日々で、ぐんぐん時間がまわっていくかんじ。ルーティン?そういった物足りなさは、なんかたのしいことあるかな、ってきもちを膨らます。見渡してみると、けっこう、すぐ近くにあったりする。ふらふら、ふらつくのもいいけど、そういうのはとうに飽きてしまっていることにふときづいた。無駄なことなんて何も無いとおもうけれど。人生は暇つぶしだとだれかがわらってたのをおもいだした。たしかにそうかもしれないし、いつだって、既に自由で。いろんなことが隣り合わせで。変化しつづけていて。




ローストビーフをつくった。クリスマスメニュウの試作である。職場のオーブンでつくるのははじめてのことで、ソワついたけれど、スっと包丁をいれると、うるわしい肉色に。アンガス牛は、あぶらがあまくておいしいのだと知った。感謝。



人間の肉はどんなあじがするだろうって、たまに考える。辺見庸さんの「ゆで卵」という食べ物の話ばかりの短編集がすごくすきで、それぞれ短編の題名も「プリン」「ホヤ」「スパゲティ」「くずきり」「B.L.T」とかなのだけれど、その中に「ヒト」というのがある。中学生の頃に読んだときはギョっとしたけれど、いま読み返してみると、なんだかかわいらしくも感じる話で。ふしぎ。


梶井基次郎の「檸檬」も、ひさしぶりに読み返してポカンとしてしまったし、感性もいつのまにか変わっているもんなのだなとわらった。




きのうは妙な夢をみた気がする。といってもぜんぜんおぼえていないのだけど。空気感みたいなぶぶんだけ、のうみそにヒタっとくっついてるかんじがしてる。だれかにはなしたいけど、だれにもはなしたくない。だれかにわかってほしいけど、だれにもわかってほしくない。へんなの。




ちょっとだけ、早送りをしたい朝。

ハロー、





メイプルヶ丘




夢の備忘録 -----------



「彼女は全てを愛しすぎている」という題名のついた楽譜、それは本の表紙全面に書かれている。楽譜は完成しているが、一小節だけ何も記されていない空白のある曲。屋上に置いてあるピアノの椅子に腰掛けて、それをみつめたまま戸惑っているわたし。ちかくに立っている2人の男。空は快晴で青々しく、風がやわらかく吹いている。



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夢を、よくみる。

憶えていたりいなかったり、ぼんやりしていたり、するけれど、どうしてなのだろう。夢は、記憶の整理だと聞いたことがある。食べ物と夢の関連性についての記事を目にしたこともある。例えば、眠りにつく前にレッドチェダーチーズを食べると幼少期の頃の夢をみやすくなる、だとか。しかしながら、みやすくなる、ということであって、確かなものだとは言い切れないし、そういった事前知識のようなものを頭に入れてからそれを試みるのと、何も知らずに、というのでもまた結果は違うのだろう。つまり、あらゆることが曖昧の渦の中にあるようで、考えれば考えるほど、笑えてきてしまう。だって、わたしはこういったことを考えるのが、ひじょうにすきなのだ。



ふときづいたこと。

いつからか、自室の壁に、葉書や雑誌の切り抜きなどを貼りつけているけれど、規則性は無く、縦横斜めもきちんと合わせずに、貼りつけている。それは、そうすることが落ちつくからであって、隙間までを含めてひとつの空間なのだ。街の電線たちが繋がり続けているような、道がすべてつながっているような、そういった感覚とよく似ている気がする。或る隙間は、或る時がくれば埋まり、いつまでも埋まらない隙間もある。輪が拡がっていって、狭まっていって、それはまるで呼吸しているかのようで、すべてが似ていることにきづく。そしてとつぜん、わたしはわたしがわからなくなる瞬間がやってくる。原因は?わたしによるわたしへの観察によると、それは外部への過剰意識や期待からくるのだろう。そして疑問や葛藤。それすらも、呼吸の中にある。いのち、だ。同時に死を連想する。



はー、いそがしいそがし。

細胞たちが走り回っているかんじ。だけどけっこう、たのしそう。


このひとの味方でいたい、とおもえるひとがいるだけで、いろんなことがだいじょうぶだ、とかんじていられているふしぎ。



グラッパブルな日々。








ヨーヨー




ぐ、っと冷えこむ朝。

いつのまにか、もう冬だ。ふゆ。


数日前、めずらしく午前中ぎりぎりに目がさめて、もぐらみたいにのそのそとキッチンまでゆき、朝ごはんをつくった。きまぐれに、あつあつのスウプをつくって、ぜんぶ食べおわるころには身体がぽかぽかしてた。熱い汁物が、あんまり得意じゃない、気がしていたけれど、けっこう、いいかもしれない、といまはおもってる。


だいたい、食のことばかり考えている。仕事で料理をしているときも、家の冷蔵庫になにがあったっけなあ、とか、魚屋さん偵察にいかなきゃ、とか、フライパンの深さの良し悪しについて、とか、つくったことない料理を脳内羅列してみたりとか。


料理はたのしい。

おなじもの、って、なかなか二度はつくれない。それって、おいしくても、まずくても。人間関係も似ているな、と感じていて、猿でも犬でもそのときの気分とかも、あるよなって。だから、いいもわるいもあって、豊かなのかもしれないな、そうおもう。

関係無いけれど、いつかの手記に、芋について書いたことを思いだした。確かニョッキブームだったころ。芋って百面相するなあ、みたいなことを書いたような気がする。ただふかすだけでも芋、スライスしてバターで焼いても芋、粉ふきにしても芋、そっから潰して何かと混ぜても芋、そっから丸めて茹でても芋、でんぷん抜けても芋、芽がでても芋、芋芋芋、芋ゲシュタルト崩壊しても芋。芋はパクチーにはなれない。けどパクチーは芋になれない。みんなちがっておもしろい。

芋にもいろいろある。

ふと、人って芋みたいだなとおもったりしたけど、それってなんか、かわいいな。おおきい芋、ちいさい芋、恥ずかしがり屋の芋、ふてくされた芋、おこりんぼうの芋、なきむしの芋、キザな芋、初デート前の芋、酔っぱらった芋、病床の芋、食べ盛りの芋、チャラい芋、賢者タイム中の芋、小芋連れの親芋、踊る芋に見る芋、

( 果てしないのでやめましょう )



あきたこまちの玄米を手に入れて、フライパンで炊いてみた。生姜をたっぷりいれて、白だしをきかせて、平茸と秋鮭の炊き込みごはん。かるく塩揉みしておいたピーマンと白ごまを混ぜ合わせて、ほくほく、食べた。玄米って、歯ごたえがよくってすきだな。しかし、もぐもぐ食べながらも、つぎはなにつくろうかと思惑しちゃっているわたしで、やれやれなのであーる。



いちど、手を大火傷したことがあって、油がこわくなっていた時期がある。いちど、こころが壊れかけて、料理の仕方がわからなくなったことがある。どちらもすごくこわかった、料理ができなくなってしまうんじゃないかとおもって。だけどそれでも、少しずつやってみたら、いつのまにか、いまがあって。ふしぎ。



やりたいことばかりはできないけれど、それでもやるんだ、やりたいこと。いっこずつ、みつけて、拾っていくかんじで。



ぐっどもーにんぐ、

おやすみなさい。



フラッパー




おなかへった。

どうしておなかはなるんだろ、と、いつもふしぎにおもう。生物学的に、ということじゃなくて、

どうしておなかはなるんだろ。

だれかにきいてみよう。



いろんなことがあって、いろんなことがあった、きっとこれからも、あるんだとおもう、ぐるぐる。まあ、だいじょうぶだとおもう。刺激は、麻痺していくのかもしれない、もっと、もっと、ってなって、よくばりだなあって。だけどひとつひとつ、ちがうから、くらべることはないんだ、たぶんね。矛盾してる?たぶんね。



ここしばらく、ビリヤニを食べることがよくある。というのも、わたしがビリヤニビリヤニ騒いだりしているから、そうしてビリヤニの乱が。ちょっと前は、カレー祭り、ラーズーチー騒動、んんん、しあわせ。つぎはなんだろ、と想像しつつ、頭の中はビリヤニまみれ。だれも村八分にはしないぞ、なあ、食材くんたちよ。いつもありがと。



けっこう、重大な決断をした。

きめた、というより、きまってた、のだと口にした瞬間にわかった。ごにょごにょ、あるけれど、わたしはわたしにただしいとおもうことをやっていたい。それは外界に対しても。フィルターは何色か、それは重要かもしれないけれど、あるひとつのスパイスのようなものだとおもう。やるだけ。やりつづける。やるんだ。



へんなこと、おもいついちゃって、それから、穴を探してる。歩きながら、自転車に乗りながら、探してる。

いい穴、ないかな。



つづいていくこと、って、なんか、すごい。かさなっていって、いまだに、ソワソワする。バウムクーヘンは、喉がつまるから、そんなに得意じゃないけど、そんな、かんじ。色とりどりの、マイバウムクーヘンライフ。




ハロー、ごきげんいかが?




テクスクト・テクスクト



もしも目が視えなくなったとしたら、眠りのあいだにみる夢も、なくなるのだろうか。



身震い、って、ちょっとたのしい。



マルバユーカリの葉っぱのにおいは、だいすきなあのハーブのにおいとよくにてる。刻んでスープにいれたらどうだろうか、コアラじゃないわたしは、お腹をこわすかもしれないけれど。



そう、もしも目が視えなくなったとしたら、だけどきっと、どうにかなるだろう。たしかにすきなもの、が、まだいくつかわたしにはあるから。



何年もほとんど毎日身につけていたピアスの片方をなくしてしまって、すごくかなしい。いまごろどこにいるんだろう、


生活したい、ふとおもった。

どういうことか、わからない。



ときどき、身体の中が、鳴る。

小石や木の実を幾つか入れて、坂を転がってみたらたのしいかも、そんなことを想像したりして。



チュパカブラネッシー、クロッポコ人、座敷童子、とか、そう呼ばれている未確認生物?妖怪?たちは、自分たちがそんなふうな名で呼ばれているのをご存知なのかしらん。イエティって、かわいい名前だとおもうから、もし遭遇したら話してみよう。でも、イエティ語ってのがあるのかも。それに彼ら、肉食っぽいよね。



たまらなくおいしいものをみつけると、それをたらふく食べたくなってしまう。いつか友人たちと呑んでいる席でクアトロフォルマッジを3枚頼んで文句を言われたことがある。同じピザ3枚も食うかよ、と。しかし先日、当店にて同じピザを立て続けに4枚注文してくれた方々がいたのでわたしは歓喜した。わかるよ、うんうん、わかります、おいしくつくらせていただきますですシェイシェイ、と頷きつつ、ピザを焼いたのであーる。



冷蔵庫の中からは扉があけられないから、入っちゃあぶないとおしえてもらった。はーい。



いろんな映画の話をできる相手がいるのはうれしい。もくもくとずっとひとりで観ては思い探りを繰り返していたような年月だったけれど、一歩、輪っかの外に出た気分になれたりして。ソワソワして、じゃあまたね、って輪っかの中に戻って、



ずいぶんと髪が伸びた。

3年前に、腰まであった髪をばっさり切った日のことを思い出した。風がつよくって、切りたての襟足がくすぐったかったきおく。



パンダのやつ、やっぱり乗りたいな。



恋人がなにかうたっているのを耳にすると、顔面がにこにこしてしまうという身体的反射。細胞の反応。ふしぎ。



わたしはわたしをスプーンで掬ってあげたい。ゆうべから、頭が痛くて、あのこのことをおもいだしてた。


ハロー、ハロー、











わたしのぶどうの木




カンパリのゲロを吐きながら歩いていた夜、ふときづいた。OBEYの正体、それは自分自身なのではないか?


フィルター、についてしばらく思考していたのも、日常の断片、サッと一瞬視界に入った他人の発言の記憶から派生したものではないのか。それにきづいたしゅんかん、オー、ちいさく声がでた。夢ともよく似ている。



カンパリのゲロは甘くて苦い。

ほとんど何も食べていない胃袋に流し込んだという行為は、幼少期に地元のちびっこ相撲大会でちょっと名をあげて脳みそばかりに脂肪をつけた大人が連勝続きの現横綱に挑んで猫騙しでコロっと転んで敗北した、みたいなかんじ。もう、完敗。はっけよーい、のこらなかった、カンパリの海。


新宿から池袋まではけっこう近い。9kmとちょっと、くらい。

歩いていたら着いていた。

そう、歩いてたら着いた。

人との出逢いもよく似てる。


あとになってきづく、ということは、ごくごく自然なことかもしれない。だって、刺激があって感じるんだろう、とおもうから。穏やかな時間が噓偽りなんだとしたら、それはものすごくおだやかなのかもしれないとおもうんだよね。まち、とか、くに、とかよりもっととおく?からみるようなきもちを想像してみると。

だけどいるのは、ここ、なのね。

そういう矛盾、かわいいなって。

自分のことじゃなくて。ひさしぶりにはなしたともだちのこと。



夢、とか、憧れ、って、むかしはもっときらきらしてみえた。みてた。

それがちがうふうにみえてきた、っていうのは、ちっともわるいようには感じてなくて、ただ、戸惑ってるいま。きらきら、したままなんだけど。

わたしは切り替えがはやい?から、よし、こっちいこう、っておもう、それもだめなら墓場まで連れてくから。

これは誰かに言っているんじゃない、備忘録でもない、肌に刻みつけたいようなもの、にちかいもの。



わたしはすごくよくばりで、そばにいてくれているひとをかなしませたりこまらせたりする。まいにちスパゲティしか食べれなかったらうんざりしちゃうかもなってわたしはおもう。いろんな食べ方、あるけど、そういうことじゃなくて。つまりわたしはうどんとか蕎麦とかフォーにもなりたいわけであって、

米ならジャスミンライスがいいな。

とかおもってしまうのだけど。



いつかこれをやりたい、とかぼやいていると、あっというまに月日は経つ。

だけど、それでもいいやとおもえることがまた、できちゃって。

やっぱり、生きるのはたのしい。




ありがとうかみさま、

ありがとうきみたち。





キッチンおばけ



にちようび、

ずいぶんとひさしぶりのひとと、あった。どうしてもいま、あうべきだとおもったのだ。


夜になりかけている渋谷駅前、行き交うひとびと、たましいたち、色とりどりにまじりあう成分たちは、気を澄ましてみると旋律のようなものに変換されるということにきづく。足音が雨音にきこえてくるような、


ある中華料理店にて、

おいしい料理やアルコールは、ぽろぽろ、ぽろぽろ、アタマの中身をほぐしては押し出すようだ。点と点をつないで、絵を描くみたいな時間だった。

ぽろぽろ、ぽろぽろ、


だれといてもひとりだけれど、ひとりでいてもだれかといられるような、そんなきぶんになって。このひとと、ともだちでいられて、よかったな、そうおもった。


かたい握手は、またね、のしるし。

ありがとう。




さいきん、恋人がよくカレーやステュウをつくってくれる。それがものすごくおいしいもんで、いつもほっぺたが行方不明になる。キッチンに立つ姿をみていると、たのもしいな、とおもう。ねむっているのをみていると、猫かな、とおもう。音をかんじているのをみていると、ちきゅうかな、とおもう。



わたしはわたしがよくわからないままだけれど、この夏を、すきだとおもってる。ふしぎであーる。



みじかい爪先を、研ぐ。