ち にく ほね




二月二十八日、

コマドリの四回忌だった。

友人と、献杯しようということになり、夜になってから電車に乗り込んだ。川崎という街には、なかなか馴れない。どうしてか、わからないけど。


九回裏、というお店に連れていってもらった。カウンターだけのこじんまりした店内だけれど、静かな活気があるように感じて、居心地がよかった。ハイネケン、ではないビールで乾杯して、いろいろなことを話した。


時間が経って、気づくことがある。知らなかったことを知って笑えるのも、いまだからなのかもしれないとおもって、鼻の奥がツンとした。


「 変わらないね、」と友人がぽつり口にして「 変わらない?」とわたしが問うた、そのあとはどんな話をしたっけ、青汁ハイを呑んで、玉子焼きとアスパラをつまんで、泥亀という焼酎を呑んで、



コマドリが死んで、わたしは自分のせいだとおもった。いまもおもっているふしがあって、できるだけすべてを忘れないでいようとおもいつづけている。責める、のではなくて。気づかされたことを、わたしはわたしの意思でちからで、ちゃんと持っていたい。

あるものはある。ないものはない。ゆめならいくらでもみればいい。よごれたら、きれいにすればいい。



三大欲求があるうちに、生活をしゃんとしよう、そうおもっています。

パズルはまだまだ完成しないし、山あり谷あり、曲り角で狼でてくるし、かわせば落とし穴、撃たないピストル構えられても困っちゃうし、ってわたしも構えてんじゃん機関銃、射程距離遠すぎてムリ、いやいけんじゃね?撃つ?どうする?いっそ投げる?走ってって殴る?暴力よくない?じゃあ3回噛んでペッてしてやる。もう愛じゃんソレ。愛ってなに?しらないけど、雪によく似てるって噂だよ。そっか、雪か。



なにを言いたいかなんて、瞬間ずつで変わっていくから、桶屋は儲かるんでしょうか。あっちこちで、水がこぼれてる。じゃあもういっそ、棺桶で。



たのしいのが、いいよね。




ヘルダーリン



おだやかすぎるような、正午。


早起きの恋人をいつもどおりにみおくって、もうひと眠りしようかとベッドにもぐったけれど、頭がさえてしまって、煙草に火をつけた。



掃除、洗濯、

お昼ごはんにはあったかいお蕎麦。

物置きと化しているソファの裏を覗きこんだら、エフェクターの空箱、くしゃくしゃのトートバッグ、落書きして丸めた紙、いろ、いろ。バスタオルとシャツとカーディガンが一緒くたになってでてきて、猫なの?と笑ってしまった。真冬のあたたかい日に、夏のうたをききながら。



ことばにならない感情が、たくさんあって、ふいにこぼれる。はみだす。できごとはおきつづけるから、必然とか運命とか、そういうことばにされることもある。することもある。

だけど、だいじなもんはだいじで、つづけたい、つづけようって、そういうのが重なっていって、交差して、



なにより、あったかいお蕎麦にのっけた卵に、もしかしたらあたった可能性をひしひしと感じている腹、なう。




めげずに、いきましょ。

こんなことも、ある。





気がついてしまった。その瞬間、ぺたりと全身にへばりついていた薄皮が剥けるような、わたしを囲い覆っていた殻か壁か、何かが、ガラガラと音を立てて崩れたような感覚がした。


すこしの恐怖と、安堵。

だから、だったのか、しばらく、靄のかかっていた頭が、晴れたようで、でもなんだか、ゆらゆらしている。自問自答して、決めるのがいい。焦らず、たしかなことを、見極めようとし続けよう。



自身に厳しいひとがすきだ。

すき、というよりも、尊敬できる。それは、わたしはわたし自身に、そうありたいとおもっていると同時に、むつかしいことでもあるから、と感じているからだとおもう。

葛藤しているひとは、うつくしいと、やっぱり、かんじているよ。



目には目を、歯には歯を、になってしまうと、もう、ごろごろ、転がっていくのだとおもっていて、なのにハンムラビ的になってしまうことがあって、いやになる。法典は悪くない。わたしがわたしの成分に反するのだとおもう。それで、だけど、でも、どうにもならないものは、ならない。どっちもこっちも。




すこし、もうすこしおちついて景色をみれたとき、やっと、方向を変えるかもしれない。そう、確信にも似た予感がしてる。なにがあってもだいじょうぶだとおもいつづけてるから。

過信か?そんなもの、過ぎてしまえば笑い話にもなるのだろう。という過信。放置したままの傷は膿まずにもう、乾きつつある。



信じていよう、わたしを。

だけどもっと、雪がふればいいのに、





Suicide apples



さいきんのこと、

午前5時前、自転車で、家までの道、しめっぽいくうき、つめたくも、あたたかくもなくて、この冬にはまだしっかり雪もふっていないのに、すっかり春みたいだとおもった。桜の木がならぶ路地を覗いてみたけど、やっぱり、葉もなにもついてはいなくて、ちょっと、わらった。せっかち。



集中力が途切れているのか?頭の中をさぐってみた、そもそも、いつからか何にも集中していないし、逆に、二十四時間集中していることが当たり前のようになっていることにきづいて、驚いた。いろんなことが、ごくしぜんに、ある、うまれて、きえていく。


しばらく、泣いていない。どうしてだろうとわけをさがしてみたとき、ずっとわたしのなかにあったある成分が、ちりぢりになったしゅんかんがあったことを、確認できた。なにかを失ったときには、かなしさ、みたいな感情がうまれることがわたしはおおかったけれど、なみだにつながっているであろう感情の線が、体内からぷつんとちぎれていったようなかんかく。




先々週前くらい、あるひとに、きみは黒目の奥にいつも氷があるね、と突然言われた。雪じゃないですか?と問うたら、雪なら溶けるもの、と。どういうことなんだろう。つめたさ、かしら。




ソウルジェムがにごらないように、生きようって、あれからずっとおもってる。そういうことなんだとおもう。それは、これまでも、これからも。

だから、だいじょうぶ。しつこい九官鳥みたいに、くりかえす。




おおきく育った植物を、ひと回り大きなプランタに移しかえる夢をみた。

わたしはどうやら、うれしいらしい。



クリスマスの夜は、ともだちと、おさけをたくさんのんで、おいしいものをたべて、ぎゃーぎゃー騒いだ。冷凍のブルーベリーを手づかみで食べたから指先がどす黒く染まっていて、壊死してるのかとおもったと、ともだちがおどろいて、ゾンビのまねしてわらったりして、タクシーで車酔いして、フルーティなゲロを吐いて、


物音がして、目をさますと、ノッポのサンタクロースが部屋にいたから、おかえり、ってわたしは言った。



それぞれの季節をすきになっていくことは、自分自身やだれかのことを、すきになっていくことに等しいかもしれない、そうおもった。らぶ








びいどろ




いつのまにか十二月も半ばだった。けっこう、忙しい日々で、ぐんぐん時間がまわっていくかんじ。ルーティン?そういった物足りなさは、なんかたのしいことあるかな、ってきもちを膨らます。見渡してみると、けっこう、すぐ近くにあったりする。ふらふら、ふらつくのもいいけど、そういうのはとうに飽きてしまっていることにふときづいた。無駄なことなんて何も無いとおもうけれど。人生は暇つぶしだとだれかがわらってたのをおもいだした。たしかにそうかもしれないし、いつだって、既に自由で。いろんなことが隣り合わせで。変化しつづけていて。




ローストビーフをつくった。クリスマスメニュウの試作である。職場のオーブンでつくるのははじめてのことで、ソワついたけれど、スっと包丁をいれると、うるわしい肉色に。アンガス牛は、あぶらがあまくておいしいのだと知った。感謝。



人間の肉はどんなあじがするだろうって、たまに考える。辺見庸さんの「ゆで卵」という食べ物の話ばかりの短編集がすごくすきで、それぞれ短編の題名も「プリン」「ホヤ」「スパゲティ」「くずきり」「B.L.T」とかなのだけれど、その中に「ヒト」というのがある。中学生の頃に読んだときはギョっとしたけれど、いま読み返してみると、なんだかかわいらしくも感じる話で。ふしぎ。


梶井基次郎の「檸檬」も、ひさしぶりに読み返してポカンとしてしまったし、感性もいつのまにか変わっているもんなのだなとわらった。




きのうは妙な夢をみた気がする。といってもぜんぜんおぼえていないのだけど。空気感みたいなぶぶんだけ、のうみそにヒタっとくっついてるかんじがしてる。だれかにはなしたいけど、だれにもはなしたくない。だれかにわかってほしいけど、だれにもわかってほしくない。へんなの。




ちょっとだけ、早送りをしたい朝。

ハロー、





メイプルヶ丘




夢の備忘録 -----------



「彼女は全てを愛しすぎている」という題名のついた楽譜、それは本の表紙全面に書かれている。楽譜は完成しているが、一小節だけ何も記されていない空白のある曲。屋上に置いてあるピアノの椅子に腰掛けて、それをみつめたまま戸惑っているわたし。ちかくに立っている2人の男。空は快晴で青々しく、風がやわらかく吹いている。



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夢を、よくみる。

憶えていたりいなかったり、ぼんやりしていたり、するけれど、どうしてなのだろう。夢は、記憶の整理だと聞いたことがある。食べ物と夢の関連性についての記事を目にしたこともある。例えば、眠りにつく前にレッドチェダーチーズを食べると幼少期の頃の夢をみやすくなる、だとか。しかしながら、みやすくなる、ということであって、確かなものだとは言い切れないし、そういった事前知識のようなものを頭に入れてからそれを試みるのと、何も知らずに、というのでもまた結果は違うのだろう。つまり、あらゆることが曖昧の渦の中にあるようで、考えれば考えるほど、笑えてきてしまう。だって、わたしはこういったことを考えるのが、ひじょうにすきなのだ。



ふときづいたこと。

いつからか、自室の壁に、葉書や雑誌の切り抜きなどを貼りつけているけれど、規則性は無く、縦横斜めもきちんと合わせずに、貼りつけている。それは、そうすることが落ちつくからであって、隙間までを含めてひとつの空間なのだ。街の電線たちが繋がり続けているような、道がすべてつながっているような、そういった感覚とよく似ている気がする。或る隙間は、或る時がくれば埋まり、いつまでも埋まらない隙間もある。輪が拡がっていって、狭まっていって、それはまるで呼吸しているかのようで、すべてが似ていることにきづく。そしてとつぜん、わたしはわたしがわからなくなる瞬間がやってくる。原因は?わたしによるわたしへの観察によると、それは外部への過剰意識や期待からくるのだろう。そして疑問や葛藤。それすらも、呼吸の中にある。いのち、だ。同時に死を連想する。



はー、いそがしいそがし。

細胞たちが走り回っているかんじ。だけどけっこう、たのしそう。


このひとの味方でいたい、とおもえるひとがいるだけで、いろんなことがだいじょうぶだ、とかんじていられているふしぎ。



グラッパブルな日々。








ヨーヨー




ぐ、っと冷えこむ朝。

いつのまにか、もう冬だ。ふゆ。


数日前、めずらしく午前中ぎりぎりに目がさめて、もぐらみたいにのそのそとキッチンまでゆき、朝ごはんをつくった。きまぐれに、あつあつのスウプをつくって、ぜんぶ食べおわるころには身体がぽかぽかしてた。熱い汁物が、あんまり得意じゃない、気がしていたけれど、けっこう、いいかもしれない、といまはおもってる。


だいたい、食のことばかり考えている。仕事で料理をしているときも、家の冷蔵庫になにがあったっけなあ、とか、魚屋さん偵察にいかなきゃ、とか、フライパンの深さの良し悪しについて、とか、つくったことない料理を脳内羅列してみたりとか。


料理はたのしい。

おなじもの、って、なかなか二度はつくれない。それって、おいしくても、まずくても。人間関係も似ているな、と感じていて、猿でも犬でもそのときの気分とかも、あるよなって。だから、いいもわるいもあって、豊かなのかもしれないな、そうおもう。

関係無いけれど、いつかの手記に、芋について書いたことを思いだした。確かニョッキブームだったころ。芋って百面相するなあ、みたいなことを書いたような気がする。ただふかすだけでも芋、スライスしてバターで焼いても芋、粉ふきにしても芋、そっから潰して何かと混ぜても芋、そっから丸めて茹でても芋、でんぷん抜けても芋、芽がでても芋、芋芋芋、芋ゲシュタルト崩壊しても芋。芋はパクチーにはなれない。けどパクチーは芋になれない。みんなちがっておもしろい。

芋にもいろいろある。

ふと、人って芋みたいだなとおもったりしたけど、それってなんか、かわいいな。おおきい芋、ちいさい芋、恥ずかしがり屋の芋、ふてくされた芋、おこりんぼうの芋、なきむしの芋、キザな芋、初デート前の芋、酔っぱらった芋、病床の芋、食べ盛りの芋、チャラい芋、賢者タイム中の芋、小芋連れの親芋、踊る芋に見る芋、

( 果てしないのでやめましょう )



あきたこまちの玄米を手に入れて、フライパンで炊いてみた。生姜をたっぷりいれて、白だしをきかせて、平茸と秋鮭の炊き込みごはん。かるく塩揉みしておいたピーマンと白ごまを混ぜ合わせて、ほくほく、食べた。玄米って、歯ごたえがよくってすきだな。しかし、もぐもぐ食べながらも、つぎはなにつくろうかと思惑しちゃっているわたしで、やれやれなのであーる。



いちど、手を大火傷したことがあって、油がこわくなっていた時期がある。いちど、こころが壊れかけて、料理の仕方がわからなくなったことがある。どちらもすごくこわかった、料理ができなくなってしまうんじゃないかとおもって。だけどそれでも、少しずつやってみたら、いつのまにか、いまがあって。ふしぎ。



やりたいことばかりはできないけれど、それでもやるんだ、やりたいこと。いっこずつ、みつけて、拾っていくかんじで。



ぐっどもーにんぐ、

おやすみなさい。