読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いわざる



あけましておめでとうございます。



今年のお正月も、実家に帰って参りました。


わたしの実家は山の上にある町で、帰省し夜を迎える度に、静かだ、そう痛感する。夏の夜には虫たちの鳴く声が耳までとどくのだけれど、冬には、しん、としています。ぽつりと佇む外灯が、寂しげに灯っているだけなので、じぶんの鼓動だけがトクトクきこえてくるようで、このせかいには他にだれもいないんじゃないかとさえ、感じたりして。



そう、実家のお風呂、湯船に浸かっていたのは、きのうの正午過ぎ、真冬でもあたたかい気候で、磨り硝子から差し込む日差しと、窓の隙間から聞こえてくる近所の人たちの談笑の声が、まぶしくて、あたたかかった。


わたしは " 遅くできた子 " らしく、両親はすっかり還暦も過ぎており、実家と呼んでいるこの一軒家には、両親二人と猫二匹が住んでいて。

去年くらいから、この町に帰ってこようか、なんて、真剣に考えたりする。


だけど、まだまだ、

歪んでる螺旋。

じゃなくって、

さよなら、っていうのなんて実際過去に幾度もあって、これまでわたしは残念無念の精神でやってきた。そのときのわたし、が、限界、って感じたら、終わりにしましょ、ってこともあった。それって何もおかしくない。そのときのわたしには限界だったから。

思考し続けているのは、自らの死と天秤にかけられるほどの何か、を失ったとき、もしくは、失いそうなとき、の、瞬間瞬間で自らが創り出し続ける迷宮のような建物 ( もしくは、何も通じ合えない或るもの ) と、如何に対峙するか、というようなこと。

こういうことをおもいつづけているのは、救われたいとおもって自ら選び進んだ先の先の先の先の先、のどこにも、救いはみつかっていないという事実が存在する、ということに等しい、のだとおもう。

ほら、完全に脱線していて、故に自身の問題だとわかる。だからこそ、ずるずるやっていられないし、ずるずるやっているつもりもない。

わたしはきっと、薄情で。

ひどく視野が狭い。




吹く風に 高峰の雲も はれ行きて

涼しく 照らす 十五夜の月



きのう、ひいたおみくじに、書いてあった。母は、あたしなんて末吉よ〜、とぶうたれていた。父は、神社さんの小石につまづいてウッと呻いていたから、腕を組んで歩いた。すごく、あたたかかった。


神社さんからの帰り道、車の窓をあけると、烏がたくさん飛んでいくのがみえた。どこに向かったのだろ。


実家にて、たらふく、おいしいものを食べた。鱈腹、ふくふく。

親、という生き物はふしぎだ。

ありがとう、なんかじゃ足りない。



もうすこし、トーキョーにてがんばってみようとおもう。



どうしても、冬はさむい。