やぶれかぶれの




頭が朦朧としている。
脳みそが浮腫んでいるかんじ。


生を実感すると死をおもう。どうしてかな、っておもう、わかってるけど、どうしてかな、って、おもう。ちっとも、かなしい感情ではなくて。どうして地球は回ってるのか、みたいな疑問。でも教科書に載ってないことは、ちょっとたのしくて、そのぶん頭がふわつく。


ここ数日間、おさけをのみすぎた。
記憶の曖昧なぶぶんを、拾って、集めて、口に放り込む。あまいなあ、にがいな、っていうの、うれしくて、温度があることが、鼻の奥の方にぎゅっておしよせてくる。ありがと、って、何気ないように過ぎていく日々に、感じる。
伝わるか、伝わらないか、そんなのは、わからないまま、つづいていくことがだいじにだいじになっていって、ベッドからでたくなくなったりするけど、おなかがへって、のどがかわいて、たまらん、ってなって、たいへん。


市川崑監督の映画を、さいきんよくみている。彼の作品は、ビリー・ワイルダーとかヒッチコック作品に通ずるような気がして。たんたんと進むのに、観ている側を飽きさせない、目を離せない。と感じるけれど、たぶんわたしが、ただすきなだけだろうな。なんだってそうだ。他人にとってはくだらないと笑われてしまうことも、誰かにとってはだいじなこと。同調や共感は、さほど重要では無いのだと、さいきんおもう。それぞれの周波数とか、Hz、mT、みたいなものは常に変化しつづけているから、それをどこにどう向けるか、キャッチしようとするか、というのは、自分らしくいる上ではだいじなのかもしれない。コントロール、ということばひとつをとっても、どういう意味合いかなんて人によるのだから。

わたしは話を脱線させるのが得意らしいけれど、ぜんぶ、繋がっているんだな、わたしの中ではね。( そうだ、線路が二股に分かれているぶぶんをみていると、ロマンチックだな、といつもおもうのだけど、頭の引き出しにしまっていたことをおもいだした )




am 11


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さむいけどねむたすぎてソファに沈む。眠っているあいだ、玄関ドアの向こうで、数人の話し声がずっとしていて、なんども脳だけが起きたような気がする。繁華街を出歩くとモスキート音で鼓膜が痛くなるから、壊れたイヤフォンをどうにかしないと発狂して川辺で自害したくなっちゃうかもしれないなあという asobi 、春はまだか、赤と赤と赤の縞々、夏のチョコバーかじったら、自由でいよう、叫ぶも喚くもご自由に、ダンス、ヘッドフォンに耳をあてるアイルランドの少女がうたう、貴方の髪を切らなきゃ、パリの四月、めくらのからす、猫びっこ、あたしをマリアとそう呼んで、あたしをマリアとそう呼んで、あたしをマリアとそう呼んで、あたしをマリアと呼べっていってんだよ、


さいきんきいている音のばらばらを羅列してみたら、部屋のどこかにイヤフォンがあるのをおもいだした。宝さがし、だいすき。時が停まってるような気もするけど、ちゃんと動いてる?よね。これからどこへいこう、




きょうはすごく冷える。
あったかいの、こしらえましょか。