水底サンドリー



洗濯機をまわしていると、洗剤の匂いがぷん、と漂ってきて、いいきもち。乾かすのも、たたむのも、ほんとうはすきじゃない。日常。もし、いまこれから、洗濯を二度としなくなったら、しばらく着てあげられていなかった服も、着てあげられるかな、そのくらいのきもちでいる。すごく、へんだとおもう。


ベンジーの描いた絵は、一枚で物語だし、目の前の風景で、うたで、いきもので、煉瓦たちの会話で、溶けおちかけのクリームで、ハイヒールのきもちで、夢みる不良少年で、狼の皮をかぶったヤギとかウサギで、脱いでも脱いでも狼だったり、寝ぼけて地上に墜ちた星で、そう、そんなかんじ。個展を後にした平日の夕刻、新宿南口の喫茶店のボックス席にてアイスコーヒーを注文し、白くてまっすぐなストローで飲んだ。あじがしなかった。心臓にぜんぶ、もってかれたかんじ。

飽和、それが存在して刺激も存在するのだとしっている、ようなきがする。それこそは、どっちでもいい。だってきっとみんな、うまれたときからたいくつなんじゃないの。



いろんなものが、伝染するから、目や耳や鼻や頭のてっぺんから侵入してきては、ぐら、ってなって、靴下脱いでお口に詰めちゃうよ、って、おもうことがある、でも、そういうことじゃなくって、さわりたくないものはさわりたくないし、すきなものはどうしてもすきだ、

絵空事なら燃やそう。わらってちぎって、片手間に踏んで、燃やそう、できれば、いますぐ、片手には煙草、それだけでいいと、ときおり、ほんとうにおもう。みてみぬふりばかりの、世界なら。あじをかんじなくなったチューインガムを吐き捨てるみたいに。



だいじょうぶ。わたしはわたし、きみはきみ、あのこはあのこ、あいつはあいつ、だから、だいじょうぶ。わたしはずっとおもっているし、わたしはいのりつづけているし、わたしはいのりつづける。それでじゅうぶんじゃない?
みんなひっそり、百面相するから、敏感なきみは、たいへんになるんだろ。ほら、ここだよ、しっかりしろ。

何色が足りないか、っていうのと、何色が欲しいか、っていうのは、ぜんぜん、きっと、ちがう。



キム・ギドク脚本監督作品「弓」を観た。90分の中に、十年以上の月日を視てしまった感覚が、した。言葉がいつだって必要なわけではない、彼の作品をみていると、そう、よくおもう。うつくしくて、どうしよもなく、なみだがでた。

いつだってどこか遠くにいきたいとおもってしまうし、いつだって、いますぐここで標本になりたいとおもったりする。



枕の下に、今夜みる夢たちが隠れてるの、しってた?そこにドアがあってさ、


どうにもこうにも、シエスタ