フラッパー
おなかへった。
どうしておなかはなるんだろ、と、いつもふしぎにおもう。生物学的に、ということじゃなくて、
どうしておなかはなるんだろ。
だれかにきいてみよう。
いろんなことがあって、いろんなことがあった、きっとこれからも、あるんだとおもう、ぐるぐる。まあ、だいじょうぶだとおもう。刺激は、麻痺していくのかもしれない、もっと、もっと、ってなって、よくばりだなあって。だけどひとつひとつ、ちがうから、くらべることはないんだ、たぶんね。矛盾してる?たぶんね。
ここしばらく、ビリヤニを食べることがよくある。というのも、わたしがビリヤニビリヤニ騒いだりしているから、そうしてビリヤニの乱が。ちょっと前は、カレー祭り、ラーズーチー騒動、んんん、しあわせ。つぎはなんだろ、と想像しつつ、頭の中はビリヤニまみれ。だれも村八分にはしないぞ、なあ、食材くんたちよ。いつもありがと。
けっこう、重大な決断をした。
きめた、というより、きまってた、のだと口にした瞬間にわかった。ごにょごにょ、あるけれど、わたしはわたしにただしいとおもうことをやっていたい。それは外界に対しても。フィルターは何色か、それは重要かもしれないけれど、あるひとつのスパイスのようなものだとおもう。やるだけ。やりつづける。やるんだ。
へんなこと、おもいついちゃって、それから、穴を探してる。歩きながら、自転車に乗りながら、探してる。
いい穴、ないかな。
つづいていくこと、って、なんか、すごい。かさなっていって、いまだに、ソワソワする。バウムクーヘンは、喉がつまるから、そんなに得意じゃないけど、そんな、かんじ。色とりどりの、マイバウムクーヘンライフ。
ハロー、ごきげんいかが?
テクスクト・テクスクト
もしも目が視えなくなったとしたら、眠りのあいだにみる夢も、なくなるのだろうか。
身震い、って、ちょっとたのしい。
マルバユーカリの葉っぱのにおいは、だいすきなあのハーブのにおいとよくにてる。刻んでスープにいれたらどうだろうか、コアラじゃないわたしは、お腹をこわすかもしれないけれど。
そう、もしも目が視えなくなったとしたら、だけどきっと、どうにかなるだろう。たしかにすきなもの、が、まだいくつかわたしにはあるから。
何年もほとんど毎日身につけていたピアスの片方をなくしてしまって、すごくかなしい。いまごろどこにいるんだろう、
生活したい、ふとおもった。
どういうことか、わからない。
ときどき、身体の中が、鳴る。
小石や木の実を幾つか入れて、坂を転がってみたらたのしいかも、そんなことを想像したりして。
チュパカブラ、ネッシー、クロッポコ人、座敷童子、とか、そう呼ばれている未確認生物?妖怪?たちは、自分たちがそんなふうな名で呼ばれているのをご存知なのかしらん。イエティって、かわいい名前だとおもうから、もし遭遇したら話してみよう。でも、イエティ語ってのがあるのかも。それに彼ら、肉食っぽいよね。
たまらなくおいしいものをみつけると、それをたらふく食べたくなってしまう。いつか友人たちと呑んでいる席でクアトロフォルマッジを3枚頼んで文句を言われたことがある。同じピザ3枚も食うかよ、と。しかし先日、当店にて同じピザを立て続けに4枚注文してくれた方々がいたのでわたしは歓喜した。わかるよ、うんうん、わかります、おいしくつくらせていただきますですシェイシェイ、と頷きつつ、ピザを焼いたのであーる。
冷蔵庫の中からは扉があけられないから、入っちゃあぶないとおしえてもらった。はーい。
いろんな映画の話をできる相手がいるのはうれしい。もくもくとずっとひとりで観ては思い探りを繰り返していたような年月だったけれど、一歩、輪っかの外に出た気分になれたりして。ソワソワして、じゃあまたね、って輪っかの中に戻って、
ずいぶんと髪が伸びた。
3年前に、腰まであった髪をばっさり切った日のことを思い出した。風がつよくって、切りたての襟足がくすぐったかったきおく。
パンダのやつ、やっぱり乗りたいな。
恋人がなにかうたっているのを耳にすると、顔面がにこにこしてしまうという身体的反射。細胞の反応。ふしぎ。
わたしはわたしをスプーンで掬ってあげたい。ゆうべから、頭が痛くて、あのこのことをおもいだしてた。
ハロー、ハロー、
わたしのぶどうの木
カンパリのゲロを吐きながら歩いていた夜、ふときづいた。OBEYの正体、それは自分自身なのではないか?
フィルター、についてしばらく思考していたのも、日常の断片、サッと一瞬視界に入った他人の発言の記憶から派生したものではないのか。それにきづいたしゅんかん、オー、ちいさく声がでた。夢ともよく似ている。
カンパリのゲロは甘くて苦い。
ほとんど何も食べていない胃袋に流し込んだという行為は、幼少期に地元のちびっこ相撲大会でちょっと名をあげて脳みそばかりに脂肪をつけた大人が連勝続きの現横綱に挑んで猫騙しでコロっと転んで敗北した、みたいなかんじ。もう、完敗。はっけよーい、のこらなかった、カンパリの海。
新宿から池袋まではけっこう近い。9kmとちょっと、くらい。
歩いていたら着いていた。
そう、歩いてたら着いた。
人との出逢いもよく似てる。
あとになってきづく、ということは、ごくごく自然なことかもしれない。だって、刺激があって感じるんだろう、とおもうから。穏やかな時間が噓偽りなんだとしたら、それはものすごくおだやかなのかもしれないとおもうんだよね。まち、とか、くに、とかよりもっととおく?からみるようなきもちを想像してみると。
だけどいるのは、ここ、なのね。
そういう矛盾、かわいいなって。
自分のことじゃなくて。ひさしぶりにはなしたともだちのこと。
夢、とか、憧れ、って、むかしはもっときらきらしてみえた。みてた。
それがちがうふうにみえてきた、っていうのは、ちっともわるいようには感じてなくて、ただ、戸惑ってるいま。きらきら、したままなんだけど。
わたしは切り替えがはやい?から、よし、こっちいこう、っておもう、それもだめなら墓場まで連れてくから。
これは誰かに言っているんじゃない、備忘録でもない、肌に刻みつけたいようなもの、にちかいもの。
わたしはすごくよくばりで、そばにいてくれているひとをかなしませたりこまらせたりする。まいにちスパゲティしか食べれなかったらうんざりしちゃうかもなってわたしはおもう。いろんな食べ方、あるけど、そういうことじゃなくて。つまりわたしはうどんとか蕎麦とかフォーにもなりたいわけであって、
米ならジャスミンライスがいいな。
とかおもってしまうのだけど。
いつかこれをやりたい、とかぼやいていると、あっというまに月日は経つ。
だけど、それでもいいやとおもえることがまた、できちゃって。
やっぱり、生きるのはたのしい。
ありがとうかみさま、
ありがとうきみたち。
キッチンおばけ
にちようび、
ずいぶんとひさしぶりのひとと、あった。どうしてもいま、あうべきだとおもったのだ。
夜になりかけている渋谷駅前、行き交うひとびと、たましいたち、色とりどりにまじりあう成分たちは、気を澄ましてみると旋律のようなものに変換されるということにきづく。足音が雨音にきこえてくるような、
ある中華料理店にて、
おいしい料理やアルコールは、ぽろぽろ、ぽろぽろ、アタマの中身をほぐしては押し出すようだ。点と点をつないで、絵を描くみたいな時間だった。
ぽろぽろ、ぽろぽろ、
だれといてもひとりだけれど、ひとりでいてもだれかといられるような、そんなきぶんになって。このひとと、ともだちでいられて、よかったな、そうおもった。
かたい握手は、またね、のしるし。
ありがとう。
さいきん、恋人がよくカレーやステュウをつくってくれる。それがものすごくおいしいもんで、いつもほっぺたが行方不明になる。キッチンに立つ姿をみていると、たのもしいな、とおもう。ねむっているのをみていると、猫かな、とおもう。音をかんじているのをみていると、ちきゅうかな、とおもう。
?
わたしはわたしがよくわからないままだけれど、この夏を、すきだとおもってる。ふしぎであーる。
みじかい爪先を、研ぐ。