わたしのぶどうの木
カンパリのゲロを吐きながら歩いていた夜、ふときづいた。OBEYの正体、それは自分自身なのではないか?
フィルター、についてしばらく思考していたのも、日常の断片、サッと一瞬視界に入った他人の発言の記憶から派生したものではないのか。それにきづいたしゅんかん、オー、ちいさく声がでた。夢ともよく似ている。
カンパリのゲロは甘くて苦い。
ほとんど何も食べていない胃袋に流し込んだという行為は、幼少期に地元のちびっこ相撲大会でちょっと名をあげて脳みそばかりに脂肪をつけた大人が連勝続きの現横綱に挑んで猫騙しでコロっと転んで敗北した、みたいなかんじ。もう、完敗。はっけよーい、のこらなかった、カンパリの海。
新宿から池袋まではけっこう近い。9kmとちょっと、くらい。
歩いていたら着いていた。
そう、歩いてたら着いた。
人との出逢いもよく似てる。
あとになってきづく、ということは、ごくごく自然なことかもしれない。だって、刺激があって感じるんだろう、とおもうから。穏やかな時間が噓偽りなんだとしたら、それはものすごくおだやかなのかもしれないとおもうんだよね。まち、とか、くに、とかよりもっととおく?からみるようなきもちを想像してみると。
だけどいるのは、ここ、なのね。
そういう矛盾、かわいいなって。
自分のことじゃなくて。ひさしぶりにはなしたともだちのこと。
夢、とか、憧れ、って、むかしはもっときらきらしてみえた。みてた。
それがちがうふうにみえてきた、っていうのは、ちっともわるいようには感じてなくて、ただ、戸惑ってるいま。きらきら、したままなんだけど。
わたしは切り替えがはやい?から、よし、こっちいこう、っておもう、それもだめなら墓場まで連れてくから。
これは誰かに言っているんじゃない、備忘録でもない、肌に刻みつけたいようなもの、にちかいもの。
わたしはすごくよくばりで、そばにいてくれているひとをかなしませたりこまらせたりする。まいにちスパゲティしか食べれなかったらうんざりしちゃうかもなってわたしはおもう。いろんな食べ方、あるけど、そういうことじゃなくて。つまりわたしはうどんとか蕎麦とかフォーにもなりたいわけであって、
米ならジャスミンライスがいいな。
とかおもってしまうのだけど。
いつかこれをやりたい、とかぼやいていると、あっというまに月日は経つ。
だけど、それでもいいやとおもえることがまた、できちゃって。
やっぱり、生きるのはたのしい。
ありがとうかみさま、
ありがとうきみたち。
キッチンおばけ
にちようび、
ずいぶんとひさしぶりのひとと、あった。どうしてもいま、あうべきだとおもったのだ。
夜になりかけている渋谷駅前、行き交うひとびと、たましいたち、色とりどりにまじりあう成分たちは、気を澄ましてみると旋律のようなものに変換されるということにきづく。足音が雨音にきこえてくるような、
ある中華料理店にて、
おいしい料理やアルコールは、ぽろぽろ、ぽろぽろ、アタマの中身をほぐしては押し出すようだ。点と点をつないで、絵を描くみたいな時間だった。
ぽろぽろ、ぽろぽろ、
だれといてもひとりだけれど、ひとりでいてもだれかといられるような、そんなきぶんになって。このひとと、ともだちでいられて、よかったな、そうおもった。
かたい握手は、またね、のしるし。
ありがとう。
さいきん、恋人がよくカレーやステュウをつくってくれる。それがものすごくおいしいもんで、いつもほっぺたが行方不明になる。キッチンに立つ姿をみていると、たのもしいな、とおもう。ねむっているのをみていると、猫かな、とおもう。音をかんじているのをみていると、ちきゅうかな、とおもう。
?
わたしはわたしがよくわからないままだけれど、この夏を、すきだとおもってる。ふしぎであーる。
みじかい爪先を、研ぐ。