さんだる




いつも部屋で焚いているお香がきれてしまって。探しにいったけれど、みつからなくて、ふと目にとまったセージという文字に惹かれて顔を近づけてみると、すごくすきな匂いで。数ヶ月前、実家の庭で母が育てているハーブたちをわけてもらったことをおもいだした。あのとき、セージは刻んでソーセージのお肉にいれたんだった、ローズマリーはじゃがいものローストだったっけ、タイムは確か、ということまでおもいだして、ぐう、と鳴るおなか。やっぱり、くいしんぼうはどうにもやめられない。
それにしても、部屋中いい匂い。
セージの花には、蜜蜂がよく集まるらしい。



頭の中を探検してみる、

敏感肌用の化粧水を使いはじめたけれど、なにがどうなったらどうして敏感肌というのだろう、という疑問。
ボウル1杯のポップコーンにまんべんなくちょうどいい塩味をつけるにはどういう手法がよいのか。
チーズと夢、の関係性について。
殆どの事柄に対して聞く耳を持たない人が叩き続けるポケットの中にはビスケットがそもそも入っていない、ということを気づかせるにはどうしたらいいのだろう、埃が舞ってむせかえる。
桜の花の蕾が膨らんできて、おいしそうだなあ、と喉をならしたきおく。
あるひとは、あらゆることを他人のせいにしない、だからわたしは尊敬もしているのだと気づいた、数日前。
ケチャップがもともと薬として販売されていたってことしってるひと手あげて。
なんでもかんでもなぞなぞにしちゃったらもっとたのしくなるかな、目が回っちゃうかな、ってもう回りはじめてる目。アーメン



ライオンのたてがみは、どんな匂いがするのだろう、と想像してみたら、アメリカのクッキーみたいなのだった。

では、夢であいましょ。



えちおぴあ



あ、っというまに朝だった。
いつのまにか、雨はやんでいた。


スピーカーからこぼれるいのちの粒たちが、耳から頭の中にはいってきて、ぐんぐん染み込んできて、赤ん坊にもどったみたいなかんかくになる。ふしぎ。
しらなかった景色が、たくさんみえる。


天秤はゆれている。すごくしぜんな不規則さで。だから、そのうちコロッと死んじゃうんじゃなかろうか、という不安が頭をよぎって、ふ、っとゆるむ、そんな頬も、いまはなんだか、いい。


恋人がくれた可愛らしい花たちを眺めてた。赤い実をつけた植物の名前がなんだったか、思いだせないままで。
だけどそれも、なんだかいい。



チキンスウプをつくった。
生姜、にんにく、玉ねぎを放りこんで、コトコト。小松菜をいれて、蓋をしたら火をとめる、そしたらパンをトーストしはじめて、バターを用意して。

風邪の予感がしたらチキンスウプだよ、と、いつかあのこが教えてくれたのだった。ぽかぽか、体の内側からあたたかくって、先手を打たせてもらったきぶん。



さいきん、物欲があまり無い。
以前までは衝動買いも多く、ほんとうに必要なもの、と、ただ便利なもの、の区別がついていなかったようにおもう。

料理をするとき、わたしは考える。
ある一つの食材をとっても、どの状態がおいしく食べれるだろうか、とか、組み合わせ、お皿はどれにしよう、盛りつけは?だとか、さしすせそ、とか。
変に神経質なのはどうにもならないような気がするから、じゃあ、どうせならたのしくしようよ、って、わたしはわたしに提案する。わたしはわたしを料理するように生きてあげたい。


そうだ、
プリン、食べなくちゃ。







てれぱしすと



爪色はブルー、
朝の記憶はゆるゆる、ここちよくて、いつの間にか、眠りにおちてた。


かなしみが絶え間無いのは、だれのせいでもない、きみのせいでもあのこのせいでもあいつのせいでもわたしのせいでも神さま仏さまのせいでもない。


戸惑ったままのことがふたつ。
頭の回路はややこしくて、わたしはわたしを選び取りたい、ことばにしたい、ことばは、伝達方法のひとつ、だから、すこし時間が欲しいんだけど、とか言っているうちにもぐんぐん経つ時間や月日。積木遊びみたいに考えてみて、これは丸、あっちは三角、あてはめてみたら、ちょっとだけたのしいかもしれない。
わたしはわたしを待っている。
きっかけは、いつだって突然。

しってる?
亀ってけっこう走るの速いんだよ。


どうして?というぶぶんなら、通り過ぎてしまった、大抵のことなら。
墓場まで持っていくような秘密を打ち明けるということは、罪を共有させる、という事かもしれないなとおもう。
したくはない、されるのは、まあ、いいんだけどなあ、って苦笑いの顔になっちゃう、嘘をつくのが下手なのであーる。
笑いと驚きはよくにている。
怒りとかなしみも、にてる。
やさしさと無関心もよくにているから、どっちに行っても行き止まりみたいに感じて、ただうずくまることもあったんだけど、いろいろ、おもいだして、いまを感じて、ぜんぶちがうんだよ、って。
だれに話しているのか、うんん、誰にも。しいていうなら、わたしの中のわたしへ。ねえ、聞いてる?



きのうから、ものすごく春の匂い。
浮かれてる?

うん、ちょっとね。



らんちゅう




朝、だれもいない職場のキッチンで、けむりあそびをしていると妙なきぶんになる。斜めからは暮れかけの西陽、換気扇の回る音と、わたしの呼吸音だけがよくきこえる。時刻は午後4時過ぎ。


緑色した悪魔は、いちばんの厄介者である。存在しないはずのものを心の眼に見せ、いきものを惑わせる。


春のにおいと、死者が纏う空気は似ているとおもう。赤っぽい桜の木の下に横たわるわたしを想像してみると、笑いすらうまれる。


あゝやつぱり、わたしはまた騙されたのかもしれないなあ、と、頬がゆるんだ。腑に落ちる絶望、それは愉快さをも含む。半端な態度を物に表すなら、暴走するペンか、はたまた、万能な消しゴム。



三月二十八日、コマドリの三回忌だった。そう、思い出は、時が経つ程に美化されるものもあり、残酷さを増すものもあり、うっすらと靄のかかったような記憶の中でも、くっきりとしているぶぶんを、なぞって反芻してみたり。
過去があっていまがある。瞬間ずつで、いろんなことに気づいていく。しぜんにうまれてくる感情を、とめられはしない。とめよう、消し去ろうとすればするほど、増していくような。あらゆるものごとが背中合わせなのだと気づく瞬間。



きのう、だいじなともだち二人と、わたしの実家へと出向いた。母は機嫌が良さそうで、よく喋り、お寿司やお菓子をたっぷりと用意し、お茶を淹れてくれた。

四人で丘をのぼるころ、すっかり陽は暮れはじめていて、見下ろした町並みはぼんやり、藍色でさみしくおもえた。

おなじ瞬間は、きっと二度無い。だからいつだってわたしは、いまがたいせつなのだと、よくわかる。
頰ばかりゆるむから、そのうちどっかに落っことしてしまわないだろうか。そんなうれしい心配ごとが増えてしまった。



夏がやってきたら、四年住んだこの部屋を出ようと決めている。同居している亀は、すくすく育ち、彼の個室もまた、新調しないと、

さてこれからどうしようか、予定は未定であり、未定である予定は冒険みたいでちょっとたのしい。



で、どうする?




やぶれかぶれの




頭が朦朧としている。
脳みそが浮腫んでいるかんじ。


生を実感すると死をおもう。どうしてかな、っておもう、わかってるけど、どうしてかな、って、おもう。ちっとも、かなしい感情ではなくて。どうして地球は回ってるのか、みたいな疑問。でも教科書に載ってないことは、ちょっとたのしくて、そのぶん頭がふわつく。


ここ数日間、おさけをのみすぎた。
記憶の曖昧なぶぶんを、拾って、集めて、口に放り込む。あまいなあ、にがいな、っていうの、うれしくて、温度があることが、鼻の奥の方にぎゅっておしよせてくる。ありがと、って、何気ないように過ぎていく日々に、感じる。
伝わるか、伝わらないか、そんなのは、わからないまま、つづいていくことがだいじにだいじになっていって、ベッドからでたくなくなったりするけど、おなかがへって、のどがかわいて、たまらん、ってなって、たいへん。


市川崑監督の映画を、さいきんよくみている。彼の作品は、ビリー・ワイルダーとかヒッチコック作品に通ずるような気がして。たんたんと進むのに、観ている側を飽きさせない、目を離せない。と感じるけれど、たぶんわたしが、ただすきなだけだろうな。なんだってそうだ。他人にとってはくだらないと笑われてしまうことも、誰かにとってはだいじなこと。同調や共感は、さほど重要では無いのだと、さいきんおもう。それぞれの周波数とか、Hz、mT、みたいなものは常に変化しつづけているから、それをどこにどう向けるか、キャッチしようとするか、というのは、自分らしくいる上ではだいじなのかもしれない。コントロール、ということばひとつをとっても、どういう意味合いかなんて人によるのだから。

わたしは話を脱線させるのが得意らしいけれど、ぜんぶ、繋がっているんだな、わたしの中ではね。( そうだ、線路が二股に分かれているぶぶんをみていると、ロマンチックだな、といつもおもうのだけど、頭の引き出しにしまっていたことをおもいだした )




am 11


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さむいけどねむたすぎてソファに沈む。眠っているあいだ、玄関ドアの向こうで、数人の話し声がずっとしていて、なんども脳だけが起きたような気がする。繁華街を出歩くとモスキート音で鼓膜が痛くなるから、壊れたイヤフォンをどうにかしないと発狂して川辺で自害したくなっちゃうかもしれないなあという asobi 、春はまだか、赤と赤と赤の縞々、夏のチョコバーかじったら、自由でいよう、叫ぶも喚くもご自由に、ダンス、ヘッドフォンに耳をあてるアイルランドの少女がうたう、貴方の髪を切らなきゃ、パリの四月、めくらのからす、猫びっこ、あたしをマリアとそう呼んで、あたしをマリアとそう呼んで、あたしをマリアとそう呼んで、あたしをマリアと呼べっていってんだよ、


さいきんきいている音のばらばらを羅列してみたら、部屋のどこかにイヤフォンがあるのをおもいだした。宝さがし、だいすき。時が停まってるような気もするけど、ちゃんと動いてる?よね。これからどこへいこう、




きょうはすごく冷える。
あったかいの、こしらえましょか。




おてあわせ



ハロー、ハロー、


ごきげんいかが?


さいきん、かんがえているのは、世界中の子供たちが食べたお菓子の包み紙を集めたら、どんなにあまい絵が描けるだろうってことだとか、100個の卵から産まれたひよこたちの何匹かは殻の中でつめたい戦争の夢をみたのだろうか、とか、ごみ箱が無ければごみなんてものは存在しなかったかな、とか、食虫花の気持ちだとか、52mlのブードルスをのみほして水中を漂う夢をみたらいいだろうな、とか、そういうこと。そう、いつだって夢ばかりみてる。さめない夢を、ゆめみてる。



しばらくずっと黄色信号だから、どうにでもできるなあとおもう。じ、っと身を据える一頭の桂馬を眺めてる。
摘みまで、あと二手。







うつせみ



夜はいつもたいてい起きているから、うたたねをするとお昼寝したようなかんじ。夜更けに目がさめて、ずっと観たかった映画を3作品、ある劇中にでてきたキューバサンドに、まんまと心臓とお腹が墜落して、キューバじゃないサンドイッチをつくって食べた。

料理はいつでもたのしい。

つぎはなにをつくろうか、ああそうだ、冷蔵庫にレモングラスがあるんだった、じゃあ、頭の中ぐるぐる。どんどん思いついちゃうから、やっぱりあと何個か胃袋がほしい。




あの日から、ちょうど半年。

いろんなことがあったし、あの日は夏で、いまは冬、もうすぐあたたかくなる。コーヒーカップみたいな、メリーゴーランドみたいな、観覧車みたいな、そんな日々。

分かれ道が、たくさんある。

選んで、どんどん歩いてく。


なにか、だいじなことを書き留めようとして、ぜんぶわすれてしまった。今夜のメニュウのことだったような、あの日みたまぼろしのことだったような、明日の天気のことだったような、ひさしぶりに耳にしたブラウンシュガーみたいな声のことだったような、


きょうはなにをつくろう。